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Column.013 治政とは民の苦しみを救うことにござる。by津田永忠

 2周目になりました。何を書こうかと悩みましたが、プロデューサーという言葉が好きで、歴史が好き、地元が岡山、これらを含めて書けるものにしようと思いました。笑いがないですが、興味のある人は読んでください。

 私は、前回のコラムでも紹介したように、岡山県備前市出身です。  岡山といえば、

・後楽園・・・日本三名園の一つ。芝生で作ったんです。

 いろんな大名から「池田んとこの庭、めっちゃかっこええやん」ってなったそうです。

・旧閑谷学校・・・備前市にある日本で初の庶民の学校で国宝・日本遺産  備前焼の瓦で出来ている。

・吉備津彦神社・・・桃太郎のモデルとされる大吉備津彦命が祀られている。

 県民はきびだんごはほぼ食べません。

備前焼で出来た津田永忠像】 (出典:http://gochagocha.cool.coocan.jp/SubSubject/JinbutuTudaNagatada.htm

 これらを作ったり、再建したりしたのが岡山藩を盛り上げた天才プロデューサー・津田永忠(つだ・ながただ)です。彼は、1640年〜1707年まで生きた、江戸時代前期の人で、岡山藩の池田光政・綱政に仕えた藩士です。

 この時代、備前市の隣町の赤穂市では、忠臣蔵で有名な赤穂事件が起こりました。年末・年始によくドラマ化されますね。何度見ても泣ける話です。

 今風に言えば、大会社の重役にいじめられていた子会社の社長が自殺に追い込まれた。その事実を知った47人の社員たちが、リベンジ劇を繰り広げるって話です(笑)。

 そのリーダーが大石内蔵助。準備9.9割のとんでもないことをやってのけた人物です。赤穂市には、この大石蔵之介を祀る大石神社なるものがありますが、初詣にはこの神社に行き、いい準備が出来ますようにとお願いしに行っています(笑)。

 それはさておき、この永忠さんが、かっこいいんですよね。ざっとあげるだけでも、天下の名園・後楽園の建設、国宝・閑谷学校の建設と経営、吉備津彦神社や曹源寺の造営、そして、倉安川の開削と倉田新田の開発、幸島新田、沖新田の開発、大多府島の元禄防波堤、田原井堰、百間川の開削……。300年がたった今も岡山県の財産であり続けているこれらの大事業はわずか20余年で成し遂げているんです。

 日生諸島活性化活動で行っている大多府島の港にある元禄防波堤も彼の手がけた事業なんです。現存する数少ない明治以前の港湾施設で、300 年以上経過した今もなお現役で活躍し、島の人々の生活に根付いた役割を果たしているんです。美しい石積みの防波堤です。

(大多府漁港元禄防波堤 出典:http://okayama-world-heritage.com/?page_id=16

 とりわけ注目すべきは、百間川の開削と沖新田の干拓。

 百間川とは、岡山の城下を流れる旭川がたびたび水害をもたらしていたことを背景にして出来た、分流。城の上流地点で土手の一部を低くし(荒手堤という)、大きな川溝を掘って東の中川までつなぐ。旭川の洪水時には水がそこで分流させて、水量の調節をしたんです。

 ところが、それで困ったのが中川周辺の地域。もとより排水の悪い干拓地に、城下へ流れるべき洪水が押し寄せてきたのではたまったものではない。実際、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだ。ところが、洪水は中川周辺の農村部を襲い、大水害となったんです。その後数年、大凶作が続き、藩財政も窮迫してしまう。また、人口は増えるばかりで、農民は窮乏しつくしていました。中川周辺の人は激おこぷんぷんですよね。

 そこで、永忠は、ある壮大な構想を描いたんです。手書きで分からないかもしれませんが、参考までに。

【簡略図手書き】

 「百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長・拡大させ、その河口に1,900haという前代未聞の大干拓を行う」というもの。水害対策、農地開発による雇用創出、食の安定供給、財政改善など課題を一挙に解決するというWIN-WINな大構想。課題解決と地域の飛躍を同時に構想したんです。ピンチをチャンスにするアイディアがおもしろい。

 当然のことながら、藩財政の困窮にあえぐ台所事情、洪水で壊滅的打撃を受けた中川周辺の農民から猛反発にあう。しかし、お金を引っ張ってきたり、資産運用したり(現代風にいうと)、周辺の干拓事業を行うことで実績を積み、大河川沿いの干拓が可能なことを世の中に実証し、その2年後、百間川の築堤に着手。

 その間、池田綱政の命により後楽園を造りながら、大海原の上に南北4km、東西5kmという前代未聞の大干拓・沖新田1,900haを完成させたんです。しかも、工期はわずか6ヶ月という驚異的な仕事の速さ。機械なんかない時代に突如現れた陸地、みんなが驚く痛快なことをやってのけた。この工事は、9つのエリアに分けて、競争させながら、仕事の効率を上げたようです。出来るやつです。

 永忠は、全部で、2,800ha(東京ドーム500個分)の田んぼの開発と河川の整理・統合を通して、水害の課題、藩の財政再建、農民救済など一気にやってのけたんです。彼の持論である「治政とは民の苦しみを救うことにござる」は、頷けますね。

 どこの藩でも財政は窮乏していました。しかし、この時期の岡山藩の躍進は著しい。永忠により2,800haを超える新田が生み出されたことが大きな要因。彼はもともと土木技術者であったわけではなく、むしろ、藩校の経営や農民救済などで手腕を発揮した文官、経済官僚だった。閑谷学校の経営などを通して、武士であれ庶民であれ、教育をすることで人作りをしたことが躍進のもう一つの要因とされています。

 この時代に、国の発展、いわば開発の道を鮮やかに切り拓いた岡山藩にいた天才的プロデューサー。魅力的すぎます。  

【旧閑谷学校(備前市閑谷) 瓦が備前焼 渋いですね。】

 備前市にもいくつかの永忠の仕事が残っています。永忠のやってのけたことは、今、その価値が再確認され、世界遺産の登録に向けた動きになっています。日生の活動でも、この世界遺産に向けた動きが何か出来ないかと企んでます。

 歴史に名を残すプロデューサー・津田永忠。憧れます。

 プロデューサー研究。これ私の趣味なので、シリーズ化するかは分かりませんが…。

 長々失礼しました。次回に続く。。。


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