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社会で活躍しているIVUSAのOB・OGによるコラムです。
テーマや内容はアットランダム。
バトンが途切れるまで続きます。

Column.029 20期卒 筒木 愛美


■プロフィール

 長野県安曇野市出身。1990年うまれ。

 東洋大学社会学部卒業。

 IVUSAでは4年次に会員局長を務めたほか、九十九里・関川・栃尾・バングラデシュ・東日本大震災の災害救援等の活動に参加。

 卒業後は、都内のWebコンテンツ制作会社に勤務し、企業向けのWebメディアの運用やSNSマーケティングの支援をおこなう。

 また、会社員として勤める傍ら、2014年より「一般社団法人防災ガール」の広報を担当。

 2018年1月に独立し、長野県安曇野市へUターン。フリーランスのWeb編集者・広報として活動中。

■少しずつ強くなりました

 もともと内向的な性格で、チームで動くことがとても苦手でした。しかも通信制高校に通っていた私にとって、IVUSAは自分にとって久しぶりに所属する「組織」で、最初は面食らうことも。1年生の時に学園祭での展示作品づくりを任されたのですが、3名のチームでの活動も疲れ切ってしまうほどでした…。

 そんななかでも、先輩がたにいろいろフォローしてもらい、何とかやってこれました。なので、「自分も先輩からしてもらったことを後輩にしていきたい」という一心で、学生時代はやっていたような気がします。自分を求めてくれる機会はできるだけ応じて、好奇心のかぎり行動。いま思うと本当に無茶をしていました。もうできないくらいのガムシャラぶり。

 たとえば、3年生のときは会員局の職務範囲が広かったため、6つの担当クラブの全役員会に出席し、関東の全会員が参加する会合の企画をし、会員局としての運営会議…を毎月こなしながら、自分のクラブの役員としての仕事をしたり…。でもそううまくはいかず、春プロで勉強会のスタッフだったのに、徹夜をして当の勉強会に遅刻して真っ青…なんてありえない失敗をしたりなんてこともありました。笑

 そんな荒療治のなかで、ずいぶん成長したなと自分でも思います。まさか自分が表に立つ役職を担ったり、バングラデシュに行ったりするようになるとは思ってもみませんでした。いろいろなプロジェクトや活動に参加していく中で、少しずつ強くなっていかざるを得なかったんでしょう。笑

(文京エリア+埼玉エリア=ぶんたまの追いコン。東洋クラブはこのときはまだ2期目です)

■卒業後も、「共に生きる」を問い続けています

 大学2年次の春プロでバングラデシュを訪れていたときに、東日本大震災が発生。日本人と気づいた現地のかたが「家族は大丈夫か?」と声をかけてくれたり、日本のために追悼式を開いたりしてくれましたが、現地では断片的な情報しか入ってこず、いったい何が起きたのか、数日後に帰国するまで把握できていませんでした。

 頻繁に発生する余震、節電や計画停電を要するという事態はすぐに飲み込むこともできません。急に耳に入った、被災による大きな爪痕、なくなった日常、多くの方の命が失われたという現実はとてもショックでした。ただ、漠然と「災害を乗り越えられるかはわたしたち世代にかかっている」と感じたことを覚えています。

 それまで事務畑だったので災害救援では自分は役に立たないと思っていましたが、一度勇気を出して現地を訪れてからは、すっかり東北のファンになり、毎月のように東北へ通う日々を送りました。

(2011年5月気仙沼市内の小学校にて円陣。卒業式を迎えるはずだった校内はそのままの状態)

(2013年3月の気仙沼港の近くで。4年生の春プロでは、プロジェクト終了後も有志で東北に滞在しました)

 おなじく2011年、インターンをしていた「日本財団 学生ボランティアセンター」でSNS担当として情報発信活動に携わる機会がありました。そのときに、「インターネットってすごい」と感じ、Webマーケティングの仕事につけたらいいなと思うように。 卒業後は、都内のWebコンテンツ制作会社に勤務し、企業向けのWebメディアの運用やSNSマーケティングの支援をさせていただいていました。

 一方で、就職をした2013年の夏は、日本各地で毎月のように豪雨災害が発生。

 「現地に行けば、役に立つことができる」

 IVUSAでの災害救援の経験から、そうわかっていましたが、仕事にもまだ慣れていないカラダで災害救援に行くのはどうしても難しく、もどかしい思いをしていました。

 そんなとき、防災をわかりやすく啓蒙する非営利団体に出会い、「防災の活動なら、いまの仕事をしながらできるし、これからの災害で悲しむひとを減らせる」と思ったんです。いわゆる「プロボノ」というかたちで、会社に勤めつつ、空いている時間で自分が得意なWebまわりのサポートをその非営利団体でおこなっていました。勤めていた会社はベンチャーでわりと激務ではありましたが、会社とは違う自分、違うスキルを発揮できる機会は充実した時間でした。

 プロボノの活動に熱中できたのは、東日本大震災での災害救援を経験したことで、自分のなかで減災に対する想いが高まっていたこともありますし、「社会をよくしたい」と考え行動することを、大学生のときだけのものにしたくないという意地みたいなところもありました。笑

 防災の非営利団体はまもなく解散してしまうのですが、学生時代からずっと続けてきたボランティアやNPOでの活動を「ライフワーク」にしていきたいという気持ちは消えず、いまはIVUSAの広報を少しお手伝いさせていただいています。私にとって、安定的な収入を得る「ライスワーク」だけではなく、未来を少しよくするための「ライフワーク」の2軸がある暮らしが自分らしいと思っています。

■現在はフリーランスとして活動しています

 いまは、Uターンというかたちで、住まいの拠点を安曇野市の実家に置き、フリーランスのWebディレクターとして活動しています。 長野には自分のスキルを活かせるような職場がなかったので、独立することにしました。東京や長野の企業などから請け負うWebメディアやSNSの運用・マーケティング業務を、松本市にあるコワーキングスペースからリモートワークで対応する日々を送っています。東京にも友人とルームシェアをしている家があり、仕事や私用のたび行ったり来たりの生活をしています。

 松本のコワーキングスペースでは、ふと窓に目を向ければ緑が見えて、爽やかな風を感じられるところが気に入っていて、やっぱり地元が性(しょう)にあっているなと思います。一方で、感覚が鈍らないよう東京に身をおくことも私にとっては大事なこと。ひとりで事業をしていると、大変なこと、力が足りず悔しいこともありますが、好きな環境で、自己決定権をもって働く暮らしは、少なくとも今は合っているようです。“田舎か東京か”ではなく、“田舎も東京”も欲張りつつ、どうにか生きています。

 つらいこと、楽しいことをともに乗り越えたIVUSAの同期とは、いろいろとわかりあっているので、今も一緒にいるととても心地よいです。東北で活動した場所を巡る旅をしたり、遠方に住んでいる仲間を訪ねる旅をしたり…。変わらずに、またあたらしい思い出をたくさんつくれているのがとても嬉しいです。

2018年3月10日に20期の同期と気仙沼・地福寺で。翌3月11日は山元町・普門寺で犠牲者を悼みました)

■メッセージ

 伊坂幸太郎の「砂漠」という小説で、 大学の卒業式の場面で学長が言ったセリフを紹介します。

「学生時代を思い出して、懐かしがるのは構わないが、あの頃は良かったな、オアシスだったな、と逃げるようなことは絶対に考えるな。そういう人生を送るなよ」

 私なりに解釈すると、「未来志向であれ」というメッセージが込められているのではないかと思っています。

社会に出るということは、学生のときよりも自由を奪われ、やりたいことができなくなるようなイメージがあるのも事実だと思います。でも、学長は、社会人になっても「オアシスに逃げるな、今を生きろ」と言いたかったのではないでしょうか。

 30歳近くなっても、意味なく立ち止まり、自信が持てなくなるときもあります。迷いが生じると十分に力を発揮できないことになり、そうなると当然良い結果がでるはずなく、さらに自分を責めるようなことにもなったりして。でも、そんな悪循環に歯止めをかけるのは、自分しかいないもの。身体を労りつつ、目の前にご褒美となるニンジンをぶら下げつつ、ガムシャラにジタバタすること、それが人生の楽しさのような気がしています。みなさまの未来に幸多からんことを祈っています。


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